かつて栃木県鹿沼市は、蛤型(はまぐりがた)の座敷箒として、またその原料であるほうき草の産地として日本全国に知られたところである。歴史は古く、鹿沼でほうき草の原料『ホウキモロコシ』の栽培(※1)が行われるようになったのは、1841年(天保12年)、上殿の代官荒井喜右衛門(あらいきえもん)が江戸練馬よりホウキモロコシの種を持ち帰り、花岡村(はなおかむら)(鹿沼市村井町の隣の町)に植えつけたのが始まりと言われている。その後、度重なる品種改良を行いながら発展し、明治から戦前に掛けて鹿沼はほうき草の一大産地となった(※2)。
また、鹿沼は木工の町でもある。日光東照宮建設の際、日本全国より優秀な宮大工が呼び寄せられたこともあって工芸に対する「美」意識が高まり、箒に対しても「美」を追求する傾向が一段と強くなった。以前は蛤箒のコンテストが催され、美しく見える箒をいかに早く作り上げるかが競われたこともあったという。「ほうき草を取り仕切った美濃屋は、職人に階級をつけ、競わせ、より丈夫でより美しい箒を作らせたそうです」
職人同士互いに切磋琢磨することで、蛤箒の形状に磨きを掛け、それに合わせてほうき草も品種改良を行い、その相乗効果で鹿沼箒という一大ブランドを作り上げた。その美しさと機能性で卓越した鹿沼箒は当然のことながら一世を風靡した。
しかし、時代の波は大きくのしかかる。
昭和30年代以降急激に普及した電気掃除機の登場により、座敷箒の需要は激減し、隆盛を極めた鹿沼箒はいつしかほとんど作られなくなり、今では数えるほどの箒職人しかいなくなった(※3)。ほうき草を作る人々は皆無に等しい。
そのような中、鹿沼箒職人丸山氏は、鹿沼箒の伝統を守るべく、鹿沼箒を作りながら、鹿沼箒に適した良質な穂を目指して、今もほうき草を作っている。
もっとも、自然が変化し、環境が変わった今、ほうき草作りは試行錯誤の連続だそうだ。
「ゲリラ豪雨でもわかるように、気候が根本的に以前と変わりました」という丸山氏の言葉通り、昔の栽培方法をそのまま適用することができない。「難しいのは収穫のポイントです。以前は“ほうき75日”と言って、種まきから収穫までだいだい75日でしたが、今は予想がつきません。穂の状態をみながら収穫をしています」
また収穫した後も手間暇が掛かり、「刈った後、三日三晩直射日光で1本1本干しています。穂が重ならないようにしないと乾燥不十分な個所がでてしまいます。コンクリートの上で干すと手っ取り早いんですが、穂が曲がる原因にもなるのでやっていません。土の上や河原の石の上で行っています」
これ程までの労力を掛けてでも丸山氏がほうき草を作り続ける理由は、実は鹿沼箒そのものにある。鹿沼箒の特徴である蛤型の形状を作り上げるためには、穂先が長い穂を大量に使う必要がある。「手をいっぱいに広げて、男性で2手、女性で2半手くらいのものを使います」。これは「足(穂先)」の部分を整えるためだが、「そのような穂はあまりないので、ぜいたくな箒ともいえますね」と丸山氏は微笑む。また、鹿沼箒は、穂先だけでなく茎部分も使うので、穂全体がやわらかく、丈夫なものでないとうまく編め込めない。
つまり、良い鹿沼箒を作り上げるためには良いほうき草が不可欠なのだ。美しさを追求する箒だからこそ、そしてその伝統を守らなければならないからこそ、これほど手間の掛かるほうき草栽培を、丸山氏は続けている。
丸山氏を魅了する鹿沼箒。当然ほうき草だけでなく、箒そのものにも随所に職人としての技が組み込まれている。 「鹿沼箒に表と裏があるのはご存知ですか?」と丸山氏。鹿沼箒の側面には「耳」と呼ばれる突起があり、この耳の中に、表面に出ない穂が処理されている。掃く時に、右に「耳」がくる面が「表」。「裏面に継ぎ目をすべて持ってきて、表が一番きれいになるように編み上げられています」。もっとも、熟練者ともなると、裏も表も「耳」がなければわからないくらいに美しく仕上がっている。
また丸山氏は言う。「1本の穂の茎部分を編み上げる際に、カラサキという昔から伝わる独特の道具を使って、計6回茎を裂いています。柄の付け根にたどり着くまでに、じわじわとしまってくる構造になっています」
この工程が全体の仕上がりを美しくしていると言うが、鹿沼箒職人として、人前に出せる箒を作れるようになるまでには3年は掛かると言われている。その内、カラサキ1年と言われ、穂の繊維を見極め、キレイに真っ直ぐ裂くことを鍛えさせられるそうだ。
「『蛤型を作れる人は他の箒も作れますが、他の箒を作れる人でも蛤型は作れない』ということはよく言われています」。その習得の難しさがわかる。
ここでふと疑問が生じる。なぜ、こんな大変な世界へ丸山氏は飛び込んだのだろうか?
「元々小さい頃、箒づくりの職場でよく遊んでいましたし……、でも直接のきっかけはおばあちゃんが死んでしまい、おじいちゃんがもう箒を作らないと言い出したことです。心配で毎日顔を出すついでに手伝い始めたのがきっかけです」
やり始めると、あっという間にのめり込み、箒づくりが面白くて仕方がなかったそうだ。
それに東京のホームセンターで見た座敷箒に愕然としたことも背景にあったのかもしれない。「箒は代が変わって買うもの、一年一年で買い替える消耗品ではありません」。身近で本物を見て育ったからこそ、粗悪な座敷箒が流通する今に危うさを覚え、鹿沼箒の伝統を守る心に火が付いたのかもしれない。
しかし、修行を始めて2年10か月経った6月、師匠である祖父が亡くなった時にはさすがに茫然とした。その時、残りの修行を引き受けてくれたのが同じく蛤箒を作っている職人の荒木さんだった。「都賀で蛤箒を作っている荒木さんに拾ってもらったおかげで今があります。それに、ほうき草の指導をしてくれた親戚も同じ年の12月に他界してしまいましたが、ちょうど収穫の指導をしてもらった後でした」。まさに間一髪、だがしっかりと丸山氏にその伝統が受け継がれた。
それから数年経ち、今も鹿沼市で蛤箒を作っている丸山氏。その奮闘ぶりは前述の通り。「おじいちゃんが作っていた箒に比べれば、まだまだという状態です。それにこういう技術がいまなお日本にあるということをいろんな人に知ってもらいたいと思っています」
先日、高校生が職場訪問に来た際、「箒って手で作っているの?」という質問を受けたそうだ。思わずこちらも苦笑い。
丸山氏は伝統的な鹿沼箒を守るために、そしてより良い箒を作るために、今なお試行錯誤を続けているが、その笑顔は実に明るい。